アク・ベシム遺跡(スイアブ城

6-7世紀のソグド人の都城跡。ソグド人とはソグディアナと呼ばれた地域に、紀元前より住んでいたイラン系の民族。各王朝の支配下にあって商業貿易に
従事し、商業だけでなく政治、文化の面においても東西交流の一端を担っていた。ゾロアスター教、マニ教を信奉し、イラン系のソグド語を話し、ソグド
文字を持つ。ソグド文字は後に東方に伝わり、ウイグル、モンゴル、満州文字の元となった。 玄奘三蔵がインドへの旅の途中、ハミ地方にたどりつい
た時、高昌国の使者がそこに滞在していた。使者の報告を受けた高昌国王は三蔵を招待し、法師の学識に感激した高昌国王は、留まるよう乞うたが
インド行きの意志は固く、高昌国王は結局法師に旅費や通訳をつけて西突厥の統葉護可汗をはじめ西域諸国への紹介状をくれたクチャ国で雪解け
を待って、やっと西突厥(砕葉城 アク・ベシム遺跡)に着いた。 ここでも、インドに行かないで留まるよう勧められたが断り、ヤブグカガン(統葉護可汗)
は通訳をつけて西トルキスタンへ送ってくれた。テュルク(突厥6〜7世紀)の首都スイアブ城(漢字で素葉・砕葉・破葉)は8世紀半ばまで唐の勢力下に
入っていたが、長い間、このスイアブ城の位置は確定しておらず、1998年からの調査でここがスイアブ城であると断定された。第2次大戦後、発掘
調査が始まった。遺跡は発掘されたままになっており仏教関係の出土品が多く、この都の仏教寺院を推測させる出土品はモスクワにあるらしい。




ビシケクから遺跡に向かう途中からのアラタウ山脈の眺望



アクベシム遺跡の全景



アクベシム遺跡からアラタウ山脈を望む

 

日干し煉瓦の遺跡の為、崩壊がひどく、多少面影を残すのみ

 

付近には畑や牧草地が広がる。                 騎馬の遊牧民

   

ポプラの植林が盛んである                       付近の草原には野草の花盛り       

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