プレトリア

南アフリカ共和国の行政府の首都。立法府がケープタウン、司法府がブルームフォンテインと首都機能が三つにの分かれ、商業の中心はヨハネスブルグとなっています。プレトリアは計画的に造られ、街並みは碁盤の目になっており、約7万本のジャカランダの街路樹があり、ジャカランダ・シティと呼ばれています。 1853年この地に着いたボーア人は1860年にズールー族との戦いの英雄プレトリュース にちなんでプレトリアと名付けられました。ヨハネスブルグの北50キロにあり標高1367m、ヨハネスブルグより400m低い盆地で、冬も穏やかな気候だそうです。南アフリカの人口は約3800万人。76%が黒人、13%が白人、9%が混血、3%がアジア人で、公用語は、マンデラ大統領が就任してからは英語、オランダ語系のオランダ系のアフリカーンス語に加えてズールー語、コーサ語を含め黒人部族の9つの言葉が使われてるモザイク模様の国です。1814年、ウィーン会議で正式にイギリス領となり、1920年イギリスから大量の移民が到着、総督がおかれて本格的なイギリス支配が開始。インドネシア、マレー、インド、パキスタン人などのアジアから人々が奴隷として連行され、黒人や白人との間にカラードと呼ばれる混血が進んだ。1833年、イギリスの奴隷制度廃止で、労力を奴隷に頼っていたボーア人が反発、新天地を求めて北方へ移動しました。これがグレート・トレックです。5年後ナタールでズールー族と衝突し「血の川の戦い」で勝利し、ナタール共和国を建国、1852年、トランスバール共和国、1854年にオレンジ自由国を建国しイギリスから承認されました。後第一次ボーア戦争、第二次ボーア戦争を経て1902年イギリスが勝利で終結した後、自治権を獲得、1910年南アフリカ連邦が成立しました。ボーア人は新国家誕生の後、民族主義意識を強め「アフリカーナー」と称して権利を主張し、経済はイギリス人、政治はアフリカーナーが独占、アフリカーンス語を英語とならんで公用語にしました。第二次世界大戦後、アジア・アフリカ各地で独立運動が激しくなると、反人種主義闘争が頻繁になり、国民党のマランが全人口比率では少数になる白人擁護のためアパルトヘイト(人種隔離)の必要性を訴え、アフリカ人による民族運動を弾圧しました。しかし国際的な批判が高まる中、ヨハネスブルグを中心に暴動が起こり1987年、総選挙で国民党が勝利を収め、デ・クラーク大統領によるアフリカ人との対話路線で国内の空気が一変。1957年の反逆裁判で拘留されていたマンデラを無条件で釈放、マンデラはANC議長になり、デ・クラーク大統領と交渉を進め、1991年アパルトヘイト廃止により外国における制裁措置がすべて解け、1994年全人種参加による南アフリカ共和国の総選挙が実施され、アフリカ民族会議が勝利しマンデラが大統領に、その後第2回総選挙で、ムベキ元副大統領が当選し、高齢のマンデラ氏に替わって政権を握りまし現在に到っています。



開拓者記念碑からはプレトリアの360°のすばらしいパノラマを鳥瞰出来ました。

 

”グレート・トレック”(ボーア人の牛車による移動)の記念として建てられたフォートレッカーモニュメント(開拓者記念碑)の大理石ドームは博物館になっいる。



市中にはジャカランダの花が咲き誇っていました。

 

ユニオンビルは行政府の庁舎、オランダ人社会とイギリス人社会の統一を象徴する左右対称の建物と記念塔



マンデラ大統領が大統領就任時人種の融合を呼びかけたユニオンビル前の斜面の大きな庭園とジャカランダ。


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